アーティストの支援をします。

渡邉洵 個展
「救いを求める身体」

2016年7月1日(金)から7月4日(月)まで、渡邉洵初の個展を開催いたしました。

開場時間
15:00–23:00
*ただし7/3(日)は12:00-23:00
開場時間は前後する場合があります。
お電話での確認が確実です。下記の電話からご連絡ください。
もしくは、やおきまたは渡邉のTwitterアカウントで状況をご確認の上ご来場ください。
場所
東京都豊島区池袋3-36-3 ミックビル3F
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ご注意事項
会場入り口に着きましたらお電話をお願いいたします。スペースまでご案内いたします。
TEL: 050-1252-2705
電話する

アーティスト情報

渡邉洵 Watanabe Makoto
渡邉洵アーティスト写真

Photo by 29面相@えでぃー

福島県出身。多摩美術大学2年。
東日本大震災の経験やAI、シンギュラリティに着想を得て「救い」と「身体性」をキーワードに制作を行っている。

アーティスト・インタビュー

本展示にかんして渡邉氏にインタビューを行いました。(参加者:渡邉洵、すずき、島袋八起、河村修一、フカミエリ、幸温望)

渡邉
今回の展示では身体を救うためのアートをやりたいなぁと思っています。
それにあたり、まず身体について説明し、次に救いについて説明したいと思います。

身体とアート

昔の日本のアートでは、アートを拡張するために身体を用いていたと思います。
例えば白髪一雄さんのようなアクションペインティングなどですね。
しかし今はもうちょっとこう、身体を救うためにアートをやるべきだと思うんですね。

普遍的な問題意識

渡邉
僕は福島県出身なので3.11に関した作品を作りました。
あとは恋愛映画を、恋愛経験がなかったりするので……個人的な趣味ですが(笑)、ひとつ出したいと思います。
それから、シンギュラリティが近づいている……最近韓国の偉い人が碁の勝負でAIに負けたましたね。それが超ショックだったので、それをテーマとした作品も作ってみました。
すずき
俺が渡邉さんの話を聞いている限りでは、割と普遍的なテーマを扱っていると思ってて。
単に個人的な経験としての「救い」というよりも、ある種人間が持ってる弱さとか、構造的な欠陥とかそういう問題を扱っていると思うんだよね。
つまり「地震で揺れてこわいなあ」ということだけではなく、人間が持っている恐怖とか死とか生命って問題に何らかの回答をしようとしているのはわかるので面白いと思うんだよね。

美しい一手

渡邉
将棋を指すプロセスと油絵を描くプロセスは似てると思うんですよ。将棋には序盤、中盤、終盤という流れ、いわゆる大局観ってあるじゃないですか。つまり大きな場面の流れですね。
それが油絵や作品を作るときにもあると思っているんですよね。
例えば将棋が一番強い羽生さんは強すぎて勝っちゃうんで、「美しい一手を指したい」と言ってるんですよね。でもその「美しい一手」を指すことで勝ちにもつながる。
油絵を描くときにも「美しい一手」ってあると思うんですよ。
AIには勝てないんですよね。しかし「美しい」ってのは人間がやっぱり判断するものなので。
「美しい一手」を二人で指しあうような作品を作りたいと思ってます。
フカミ
美しさという意味では、いろんな操作がありうると思うんですよ。構図も操作できるし、色を白・黒・グレーに置き換えることもできるし。私の中では画面は結構操作できると思っているんです。どういう風に画面を作っていくかというのは、囲碁も将棋もプロセスは同じだと思っています。
すずき
つまり、操作した結果、何か違うと思う結果が出てしまう。そういう自分がやった結果に対してもう一回対峙する、そういうフィードバックがあるってことだよね。

批評

『あの日の記憶から』渡邉洵 2016

身体性という問題は、少なくともデカルトの時代、心身二元論にまで遡ることができる。その時代において、心、つまり精神は、人間の中心的要素であって、人間の本質であった。しかし時代が進み現代においてはむしろ、身体性がその位置を担うようになる。それはポストモダン以降に起こった理性への懐疑、不安に伴う東洋、身体知の導入に由来し、さらに直近では、ディープラーニング等々、知性を代替するテクノロジーによって脅かされる我々の存在意義の、一つの根拠として身体が力強く人間性を主張するのである。

しかし、渡邉の作品に現れる身体は不確実で、不便で、弱々しく、それゆえ、柔らかな存在であり、我々の基盤というよりは、むしろ受難の社であり、苦しみの起点であり、救済の主体である。

「あの日の記憶から」は彼の東日本大震災の経験から作られた映像作品で、電気の供給が止まり、酸素が供給されなくなった金魚に息を吹き込む渡邉自身の映像ではじまる。金魚が泳ぐ小さな洗面器の輪郭は、あたかも福島に住む彼らの生活と、私のように東京で特に地震の被害を感じることもなく生活する人間との意識の壁のようにもみえるし、もっと政治的な構造上の断絶を表すようにも見える。そして彼の映像作品に特徴的な、画面の2分割によって対比される洗面器の中の金魚と、海に息を吹き込みながら何度も波に煽られる渡邉自身の映像が我々に示すのは、東京と福島の人間が同じ身体性を持ちながらも理解できない断絶と、むしろ同じ状況に身を置く金魚と渡邉自身の同質性である。(渡邉が自覚的なのかはわからないが)キリスト教美学においてキリストの、そして救いの象徴である―「魚」に息を吹き込む彼と、重ねられたモノローグ―「期待されていないものから救われよ…」―は、現代がみいだした身体という虚構を反故にし、救いの主体と客体をも逆転させ、救いを求めながら救いを施し、波に飲まれ浜に身を投げる渡邉自身を、救いの起点であり苦しみの終点にさせる。

最後に、渡邉はイニシエーションという言葉を頻繁に口にするが、彼にとって全ての経験はイニシエーションであり、救いであるのかもしれない。それはナザレのイエスの、ゴータマ・シッダッタの、自身の身体に引き受ける苦行が、単に彼らだけの経験で終わらず、それ自体が世界の救済を代替する行為と近く、彼の作品は我々の救いのためにあるのかもしれない。

文責:Marks Neralt

展示レポートマンガ

宏美さんがレポートマンガを描いてくれました。ありがとうございます!

Copyright Hiromi 2016.